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16年前、祖父の50回忌。父が遺した『父の遺言。』

更新日:2020年1月6日


平成15年。祖父の50回忌法要をしたときのお話です。かれこれ16年前のことで、これをつくった父も、母も、もうこの世を去り、元号も令和に変わりました。時が経つのは本当に速いです。




当時、すでにぼくは広告制作の仕事で独立していて、ささやかだけど大阪で会社を構えていた。あれは、4月も半ばを過ぎた、とある日の朝のことだ。めったに電話なんかしてこない父が、めずらしくぼくの事務所に電話をかけてきた。 「おい、さとし、5月にわしの親父の法事をするじゃろうが(岡山弁です)、それでの、わしが書いた原稿があるけぇ、それを送るからの、おまえの事務所のコピー機で法事に来る客の人数分、ちょっとコピーして持って帰ってくれんか?」 いったいなんなんだよ?と父に問うと「親父の遺言」だと言う。

「わしはどうしても、わしの親父の死に際の言葉を残しておきたいんじゃ。わしのこれまでの人生の方針を、そのとき親父が示してくれた。これが親父の最後の法事じゃからの、みんなに渡しておきたいんじゃ」 祖父の臨終の話は、それまでにも何度か父から聞かされたことがある。難病で最期は相当大変だったことはある程度知っていたが、父がそれを原稿にして法事の席で配ろうと思うとは。まあ、やりたいと思ったら絶対しないと気が済まない人だから、親父がしたいならすればいいや——いや、でもちょっと待てよ、これまで親父がひとさまに読んでもらうような原稿を書いたのなんて見たことがない——いやな予感がした。 翌日、さっそく父から封筒が届いた。開封すると、紙もサイズも違う7枚ほどの便箋と、いつも法事で飾られる遺影と同じ、祖父の顔写真が1枚入っていた。

ばらばらの便箋なんて、「あんたは、わざわざ不細工なことをする」と母がよく父に怒っていたが、まさにその通りだ。ぼくも、やはり親父の為業だな、と思いつつ1枚目から目を通す。


ほぼ箇条書きだった。記号のように日付が打たれ、脈絡のないメモのような文面が、便箋と同様にばらばらに書かれている。突然「馬鹿にされて笑われて生きてきた」とか「乞食生活」とか「恨み」などという物騒な言葉も出てくる。ひとつの紙片に必ず数ヶ所は間違った漢字が書かれている。 でも、意外にも、面白かった。7枚のばらばらの便箋の上に、父が抱く愛情と感謝と誇りが、くっきりと感じられた。なんとしても「書き残さねば」という必死の思いも。 その日から3日間ほどだったろうか。ぼくは仕事を終えると事務所から毎晩父に電話し、紙に記された内容について話をした。一文ごとにそれがどんな状況から出た言葉であったのか問い質し、返ってきた父の言葉を書き留めていった。あまりしつこく訊くと癇癪を起こすかと思ったが、そんなこともなく、父は時間をかけて記憶を辿りながら、すべて答えた。いつもの父らしくないなと思ったが、ぼくも時間に余裕がなかった。とりあえずすべての紙のヒアリングを終えて、ぼくは原稿をまとめにかかった。


父が書いた言葉をできるだけ生かしながらテキストを入力し終えたのは、法事の日のたぶん3日ほど前だった。やれやれ、あとはプリントすればおしまいだ。ぼくは最後に、文字校正のために読み返してみた。


驚いたことに、そこにはちゃんと父がいた。50年前、大家族で暮らしていたあばら屋のなかで、まだ25歳だった父が、死にゆく自分の親に寄り添い、本当におろおろとしながらも、残された一家を自分が支えていかねばと覚悟をした。そんな父の、心の動きというか、目覚めというか、ぼくが書いた言葉など超えて、とてもリアルな姿として見えてきたのだ。 これは冊子にしてやらなければと思い、ぼくは不慣れなページ編集用デザインソフトを使って懸命にレイアウトした。紙を買いに走り、コピー機にセットしてプリントをはじめたのは、法事の前々日の夜だった。何度かしくじりながらも朝までかけて必要な枚数をプリントアウトし、その日のうちに実家に戻り、最後の仕上に家族みんなで製本して、何とか法事の席で配布することができた。


法事を終えて、父はたぶん、ぼくに何か慰労の言葉をかけてくれたと思うが、ぼくはそれを憶えていない。親子の会話なんて、そういうものだろう。

そしてぼくもいつか、この冊子をつくったことすら、すっかり忘れてしまっていた。




ぼくがこの冊子と再会したのは、父が亡くなってからのことだ。


5年前、母が末期癌の宣告を受けた。母は延命治療は選ばず、残された数か月間を緩和ケア医療を受けながら、父とともに暮らした。父は、母よりも先に死ぬ予定で生きてきたので、人生の最期にとんでもない誤算に見舞われてしまった。父は「母と一緒に死ぬ」と言ったが、母はそんな父に、自分がいなくなった後、とりあえず3年間だけ父が生きるための宿題を与えてこの世を去っていった。そして父は、母との約束どおりその宿題に懸命に取り組み、なんとたったの1年半で母からの宿題をやり終えてしまった。86歳になった父は、母の想像以上に一徹な男だった。


これは、母の誤算だったが、たぶん、とるにたらない誤算でしかないだろう。どんなに美しく輝くひとであれ、人生であれ、永遠に輝き続けることはない。ましてや、人生最期の約束なんて、誰もすることなどできないものだ。


あれほど祖父の遺した遺言にこだわって生きてきた父だが、ぼくらには遺言らしい言葉など何一つ遺さず去っていった。まあ、いかにも父らしくて、それも良いとぼくは思っていた。

この冊子が出てきたのは、父と母の庭づくりのアルバムのいちばん最後のページからだ。とても、きれいに挟まれていた。あまりにきれいに留められていたので、最初は母の仕業かと思ったが、父だった。庭のアルバムの整理は、父の生きがいだったから。


★父と母が30年以上を費やし、手塩にかけて育てた庭。結局、父も母も、この庭から離れて生きるという選択肢を見出すことはできなかったのだろう。昔一度、バリ島好きだったぼくら夫婦は、父と母にウブゥドの渓谷をぜひ見せたいと一緒に旅に出た。素晴らしい渓谷の眺めに、二人は驚き喜んだ。帰国した翌日、父から電話がかかってきた。父は言った。「ウブゥドの渓谷は素晴らしかった。でもな、わが家の庭もあの景色に負けてないよ。」その言葉に、ぼくも黙ってうなずくしかなかった。

人生におけるQOL(Quality Of Life)の感じ方は本当にひとそれぞれだと思うが、たぶんぼくの父と母は、自分たちなりにQOLを深く真剣に見つめ、夫婦そろって最後まで追求できた希有なケースだと思う。




こうして、ぼくは十数年ぶりに『父の遺言。』を手にとり、ページをめくり読み直してみた。

新たな気づきがあった。ぼくがつくったはずなのに、やはり、ぼくのものじゃない。


ひとつは、人が家で死ぬことが当り前だった当時、臨終の床についた親を看取る家族たちの、その死に至るまでの生々しい記録だったこと。現代では、意外と貴重な記録なのではないだろうか?


もうひとつは、これは『父の遺言。』という名の、父自身の遺言だったということだ、それに気がついた。父はすでに16年前に、ぼくらに伝えておきたいことをすべて伝えていたのだ。


そして最後に、この小さな冊子は、父とぼく、親子で一緒につくった、最初で最後の「LIFE BOOK」だ。きっとぼくは、この小さな冊子をこれからも何度となく読み直すだろう。時には笑いながら、時にはあきれながら、、、


それだけは、間違いない。



★16年前に個人的に慌ててつくったものですので、微妙な冊子ですが。

もしよろしければ読んでみてください。

また感想をいただければ幸いです。少しは父の供養にもなるかな?


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